ネイを土地から連れ出したのはダイである。どういうわけなのか、土地にふらりとやってきたダイは、そのまま二年の時を土地で暮らし、ネイと格別な交流があったわけでもないのだが
「街に戻るので一緒に行きましょう。」
とある日の朝早く、ネイを誘った。
「行きましょう」という土地の者は使わぬ丁寧な言葉を「ましょう、ましょう、ましょう」と愉快な気持ちで反芻していると「行きましょう」に対する返事は「はい」しかないような気がして「はい」がぽろりと口から出た。それで、ぽろりと出たものではあるが、出た以上はそのようになるのだろうと、一緒に土地を出ることにした。
当時ダイについてネイが知っていることと言えば、迷い込んだ近所の犬に向かって
「お行きなさい。」
とやはり土地では使わぬ丁寧な言葉で、命じているのを一度見た事があるだけだった。
ダイと暮らせば暮らす程、ますますネイはふわりふわりと浮いてしまうようになった。もともと何に対しても執着ということがない性分だ。だから、どんどと流されるがまま生きてきた。だのにダイは自分を必死でつなごうとする。その必死さが哀れで愛おしくもあり、ダイを大事にしたいとネイに思わせる。だけれどそういったネイの感情は、ダイがネイに期待しているものとは異なる種のようで、それはそうと分かっていても、ネイにはどうにもならぬ。どうにもならぬことはどうにもならぬと諦めてみると、ふわりふわりとしてしまい、なおさらその様がダイの哀しみを引き寄せてしまうのだった。そんな時、ネイはどうしたら良いのかますます分からなくなって、ダイの背にしがみついてみるが、そんな時もネイの実体はふわりとその辺りに漂っている。
2011/04/25
ほかのふうせんは_3_
ほかのふうせんは_2_
ほかのふうせんは_1_
2011/04/20
静かな身体_3_
今では、思い出す土地の者はいないのだが、ネイはこの土地を離れて暮らしたことがある。
ここより、だいぶ賑やかな場所であったのだが、波の反復が聞こえぬ夜に、ついぞ慣れる事がなかった。波の音があまりにも当たり前に身に馴染んでいたため、なぜこの街で眠る事ができないのか、ネイには当初まるで分からなかった。街の夜は音に溢れていたし、それに、波の音など、それまで意識したこともなかったのだ。ある夜、エアコンの機械的な反復の音に安らぎを覚えたネイは、ようやく不眠の原因に思い当たった。
土地を出る事にも留まる事にも、さしたる意味を見いだしていなかったネイだが、血液や体液の一滴一滴が波の満ち引きとシンクロしているような自分の身体に、逃れようのない、連なる過去の日々を見た。ひとり知らない顔をして街に暮らしていても、あの土地と同調する身体があると、自分の、人らしいといえば人らしい、粘り気のようなモノを発見して、なんだか薄く笑ってしまったのだった。
ここより、だいぶ賑やかな場所であったのだが、波の反復が聞こえぬ夜に、ついぞ慣れる事がなかった。波の音があまりにも当たり前に身に馴染んでいたため、なぜこの街で眠る事ができないのか、ネイには当初まるで分からなかった。街の夜は音に溢れていたし、それに、波の音など、それまで意識したこともなかったのだ。ある夜、エアコンの機械的な反復の音に安らぎを覚えたネイは、ようやく不眠の原因に思い当たった。
土地を出る事にも留まる事にも、さしたる意味を見いだしていなかったネイだが、血液や体液の一滴一滴が波の満ち引きとシンクロしているような自分の身体に、逃れようのない、連なる過去の日々を見た。ひとり知らない顔をして街に暮らしていても、あの土地と同調する身体があると、自分の、人らしいといえば人らしい、粘り気のようなモノを発見して、なんだか薄く笑ってしまったのだった。
2011/04/17
静かな身体_2_
二人の住む家は、海からほんの少しの距離にある。
波の行き来の反復は、二人の呼吸のように身体にぴったり寄り添い離れない。風が強くなると、海のざわめく予兆を捉え、二人の心は、密かに弾む。
ネイがユナと暮らし始めると、土地の者達はいっそう足繁く、二人のもとを訪ねるようになった。二人を訪ねるというよりは、ネイの家の裏山にある、たんぺろ様を拝みにくるのであるが、その行き帰りに、人々はネイの家の土間や縁側でお茶を飲み、二人の様子を見ていく。
土地の者と取り留めのない話をしていると、自分は、本当には存在していない者なのだろうという、はっきりとした確信がネイをおそう。苛立ちがない人々の話は、いつもつらつらとどこか似通っていて、誰から何の話を聞いているのかさっぱり分からなくなり、全ての話がネイの中で一体化してしまう。そうしているうちに、自分はその土地の者たちの語る物語の登場人物なのだろうと、ネイはふわりふわりと宙に漂っている。ユナが根元に眠っていたあの朝も、こんな土地の者の話もあったかもしれぬと、ちらとその「見知らぬ赤ん坊がいる」という状況について思ったきりで、それ以上は不思議も困ったも何もなく、これが正しい筋書きである、こうすべきものだ、といった迷いのない気持ちで自然とユナを抱き上げていた。
波の行き来の反復は、二人の呼吸のように身体にぴったり寄り添い離れない。風が強くなると、海のざわめく予兆を捉え、二人の心は、密かに弾む。
ネイがユナと暮らし始めると、土地の者達はいっそう足繁く、二人のもとを訪ねるようになった。二人を訪ねるというよりは、ネイの家の裏山にある、たんぺろ様を拝みにくるのであるが、その行き帰りに、人々はネイの家の土間や縁側でお茶を飲み、二人の様子を見ていく。
土地の者と取り留めのない話をしていると、自分は、本当には存在していない者なのだろうという、はっきりとした確信がネイをおそう。苛立ちがない人々の話は、いつもつらつらとどこか似通っていて、誰から何の話を聞いているのかさっぱり分からなくなり、全ての話がネイの中で一体化してしまう。そうしているうちに、自分はその土地の者たちの語る物語の登場人物なのだろうと、ネイはふわりふわりと宙に漂っている。ユナが根元に眠っていたあの朝も、こんな土地の者の話もあったかもしれぬと、ちらとその「見知らぬ赤ん坊がいる」という状況について思ったきりで、それ以上は不思議も困ったも何もなく、これが正しい筋書きである、こうすべきものだ、といった迷いのない気持ちで自然とユナを抱き上げていた。
2011/04/12
静かな身体_1_
夏休み初日の朝早く、二階にあるユナの部屋に、濃い潮の霧が流れ込んだ。それはいつものように、たんぺろ様の祠を清めたネイが、朝日を拝もうと顔を上げたちょうどその時だったため、海の者がユナを連れ去りにやってきたのかと、ネイを慌てさせた。
その湿気を含んだ重い霧は、ユナの部屋の隅々まで水粒を突っ込むと、その帰りしなについでような気軽さで、ユナの身体から土地の苛立ちを抉り出し、空気中に離散させたのであった。磯の匂いの水滴が垂れる部屋の中、真っ平らな心で目覚めたユナは、お引き受けの時期が終わった事を知った。
土地の者の苛立ちを一身に背負うお引き受けの者は、多くがその苛立ちによって己を忘れてしまう。また、視聴覚や言語を失う者も少なくない。しかしユナの場合、ユナはユナであり続けたし、どちらかと言えば、土地の苛立ちを受け入れて、やっと完結した存在であるかのように見えた。ユナのお引き受けは「へその少し上あたりの芯に、さびた鉄の鉤がひっかかっているような感じ」という、幾分のんきなものだった。
ユナがどこからやって来たのか、ネイには分からない。ある朝、たんぺろ様の前に、きれいな顔をして眠っていた赤ん坊がユナだ。
ネイはまるで、昨日の朝もそうであったかのように、傍らのマツの木の根元にユナを抱き移し、たんぺろ様の祠を清め始めた。そして、いつもの一連の作業が終わると、ネイはユナを抱いて家へ入り、そのまま二人の生活は始まったのだった。
その湿気を含んだ重い霧は、ユナの部屋の隅々まで水粒を突っ込むと、その帰りしなについでような気軽さで、ユナの身体から土地の苛立ちを抉り出し、空気中に離散させたのであった。磯の匂いの水滴が垂れる部屋の中、真っ平らな心で目覚めたユナは、お引き受けの時期が終わった事を知った。
土地の者の苛立ちを一身に背負うお引き受けの者は、多くがその苛立ちによって己を忘れてしまう。また、視聴覚や言語を失う者も少なくない。しかしユナの場合、ユナはユナであり続けたし、どちらかと言えば、土地の苛立ちを受け入れて、やっと完結した存在であるかのように見えた。ユナのお引き受けは「へその少し上あたりの芯に、さびた鉄の鉤がひっかかっているような感じ」という、幾分のんきなものだった。
ユナがどこからやって来たのか、ネイには分からない。ある朝、たんぺろ様の前に、きれいな顔をして眠っていた赤ん坊がユナだ。
ネイはまるで、昨日の朝もそうであったかのように、傍らのマツの木の根元にユナを抱き移し、たんぺろ様の祠を清め始めた。そして、いつもの一連の作業が終わると、ネイはユナを抱いて家へ入り、そのまま二人の生活は始まったのだった。
2011/04/11
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